「オウム真理教」の黒幕は安倍晋三と石原慎太郎!
「オウム真理教」の黒幕は安倍晋三と石原慎太郎!
オウム=創価学会=統一教会=CIA!晋三…原発事故・オウム事件をつなぐ「島津論文」と元自衛官の告白!慎太郎…オウムに資金提供!
猛毒サリンで21名を殺害、約6960名に重軽症を負わせた地下鉄サリン事件!
安倍晋太郎は、オウム真理教が運営する大学の背後の黒幕だった
「オウム真理教」の黒幕は 安倍晋三と石原慎太郎! オウム=創価 ...
https://plaza.rakuten.co.jp/mamasamabadge/diary/201903220001/
安倍晋太郎 - Wikipedia
2019/03/23 - ++ 私だけなのかどうか知りませんがアクセスできません。 http://uresiine.cocolog-
このページに 2 回アクセスしています。前回のアクセス: 19/12/07
調和の星へ 真実を知る 【 地下鉄サリンの主犯も安倍晋三! : 米 ...
greatcentralsun.racms.jp › ...
岸の義理の息子である安倍晋太郎は、エリツィン時代のモスクワにあったオウム真理教が運営する大学の背後の黒幕だった、そしてそこはソ連の兵器設計者たちの募集センターを務めた。 次に、第3世代の子孫である安倍晋三は、オウムの先端兵器技術の研究 ...
change_h on Twitter: "【安倍晋太郎もオウムと深い関係】 しかも ...
https://twitter.com › changeheart3 › status
2019/12/03 - オウム真理教の村井秀夫を口封じで殺害したのが、 在日韓国人で北朝鮮出身の徐裕行(元ヤクザ)でした。 彼は世田谷一家 ... Embed Tweet. 【安倍晋太郎もオウムと深い関係】 しかも安倍晋三の父安倍晋太郎はロシア日本カレッジに出資。
安倍晋三 加計学園とオウム真理教事件 | mixiユーザー(id ...
https://open.mixi.jp › user › diary
2018/07/07 - 親父の安倍晋太郎は、ロシア日本カレッジという研究機関の設立に出資し、この機関はオウム真理教によって運営されていた。 安倍晋三は神戸製鋼に勤めた時期があるが、
安倍 晋太郎(あべ しんたろう、1924年(大正13年)4月29日 - 1991年(平成3年)5月15日)は、日本の政治家。 衆議院議員、農林大臣、官房長官、通産大臣、外務大臣、自民党国対委員長、自民党政調会長、自民党総務会長、自民党幹事長を歴任。
衆議院議員の安倍寛の長男。岳父に内閣総理大臣の岸信介、義理の叔父は内閣総理大臣の佐藤栄作、次男は内閣総理大臣の安倍晋三である。政界のプリンスと呼ばれ、竹下登、宮澤喜一と並びニューリーダーの一人に数えられて将来を嘱望された。後に派閥の領袖となり、総理総裁を確実視されるまでに至ったがそれを目前にして病死し、悲運のプリンスと呼ばれた。
政治家として
1951年(昭和26年)、岸信介の長女・洋子と結婚し、1956年(昭和31年)、岸が石橋湛山内閣の外相として入閣したのを機に毎日新聞を退職し、外務大臣秘書官となって岸に仕えた。岸内閣が成立すると、内閣総理大臣秘書官に就任。外相秘書官になった頃から、総選挙に出馬を考えていたが、岸も岸の実弟の佐藤栄作も時期尚早と反対する中、「岸に迷惑がかかるなら、妻を離縁してでも」と決意し、1958年(昭和33年)の第28回衆議院議員総選挙に、郷里の旧山口1区[注釈 2]から自民党公認も得て出馬、2位で初当選する(この時の総選挙では竹下登、金丸信が初当選しており、新人時代からの盟友関係が後の「安竹同盟」まで繋がった)。
1963年(昭和38年)の第30回衆議院議員総選挙では落選し、支持母体流動化など選挙区の情勢から政界への復帰が危ぶまれていたが、二回連続落選しては復活の目途が立たなくなるため、義父である岸信介元首相および叔父である佐藤栄作首相二人から異例の仲介が為され、同選挙区選出議員で地盤も重なる、吉田茂直系の大物議員周東英雄の後援会長を務めていた山口県水産業会の重鎮、藤本万次郎を後援会長に迎えることによって1967年(昭和42年)の第31回衆議院議員総選挙で衆議院議員に返り咲いた。このため、周東が政界引退する遠因となった。以降、安倍は死去するまで連続当選を続け、地盤は次男の安倍晋三へと引き継がれた。
選挙区後援会の集会に於いては、「藤本万次郎さんは私にとってかけがえのない恩人であります」との一節を必ず演説に盛り込み、「郷土に恩を返す為にも、日本の舵取りを目指す所存であります」と締めるのが常であった。本籍地が熊毛郡田布施町の岸と対岸の熊毛郡上関町祝島出身の藤本は、共に幼少時は「熊毛の神童」とうたわれ交流があったが、長じて二歳年上の岸に藤本が畏敬の念を持つ事となり、この交誼が期せずも岸の娘婿となった安倍の将来に関わることとなった。岸、佐藤、安倍はこの功績に報いるため、1968年(昭和43年)の第8回参議院議員通常選挙では、藤本に山口選挙区から自由民主党公認で出馬を要請したが、藤本は辞退した。
その後の参議院山口県選挙区は、勇退予定であった二木謙吾が参議院議員を引き続き務めることとなり、1974年(昭和49年)も再出馬。1980年(昭和55年)の第12回参議院議員通常選挙では、安倍が推し藤本万次郎が後援会長を務める江島淳に地盤を禅譲する事となったが、1987年(昭和62年)二期目途中の江島の死去により、7月12日補選で二木の子息である二木秀夫に地盤は戻り、1998年(平成10年)の第18回参議院議員通常選挙では二木の地盤は後継者合志栄一へ引き継がれるも落選、無所属の松岡満寿男が当選する。2004年(平成16年)の第20回参議院議員通常選挙では、安倍の実子で岸家へ養子へ入った岸信夫が当選した。この議席には、岸信夫の衆議院鞍替えによる2013年(平成25年)の参議院山口県選挙区補欠選挙で江島淳の子息である元下関市市長の江島潔が就くこととなった。
自民党では、岸派とそれを継承した福田派に所属し、派閥領袖であった福田赳夫を支え、田中派との党内抗争「角福戦争」を争った。安倍は岸の全面的支援を背景として、福田派における世代交代の旗手と位置づけられていった。
行政面では、自民党農林・外交・国防各部会の副部会長、農林政務次官を務めるなど、農政を得意としながら外交などでも研鑽を積む。衆議院大蔵委員長を経て1974年(昭和49年)、三木武夫内閣において農林大臣として初入閣。以後、1976年(昭和51年)に自民党国会対策委員長を務め、1977年(昭和52年)、福田改造内閣の内閣官房長官となり、日中平和友好条約締結などに関与[6]。1978年(昭和53年)には福田の自民党総裁再選への流れを作るためには衆議院解散が有効と考えた安倍は「解散風」を煽るが、金丸信防衛庁長官が解散反対を公言する[7]などして解散は頓挫。同年暮れの総裁選で福田は大平正芳に敗れ、福田内閣は退陣する。
1979年(昭和54年)から1981年(昭和56年)まで大平総裁の下で政調会長を務めるが、福田派が大平と対立する中で、それぞれ籍をおく執行部と福田派の板ばさみになる。ハプニング解散の際には、政調会長と党執行部の一員でありながら内閣不信任決議採決直前に福田派議員によって議場から連れ出される一幕もあった。
政調会長退任直後に鈴木善幸内閣で通商産業大臣に就任。この時期までに内閣・党の要職を次々と歴任し、総裁候補としての地歩を固めたが、当時の派閥会長であった福田が政局の節目で再登板に意欲を示したため派閥の継承は遅れる形になった。安倍は派内の若手から支持を得ていたものの、長老たちを掌握しきれていなかったのである。
1982年(昭和57年)、鈴木善幸の首相退陣表明後、田中派の支援する総裁候補中曽根康弘に対抗すべく、福田は安倍の総裁選出馬への支持を表明。総裁予備選開催に必要な4人の立候補者を出した上で河本敏夫を総理総裁とする反田中派政権を樹立する目論見[注釈 3]であったが、安倍への党員の支持が伸び悩み、泡沫候補と思われていた中川一郎にも脅かされ最下位に転落する可能性も見えた。岸は最悪の場合、安倍の将来に関わると考え、立候補取りやめを要求したが容れられなかった。予備選の結果は3位だったが、中曽根が過半数を大きく上回る得票で1位につけたため、河本以下の候補は本選挙を辞退し、ここに福田派の目論見も潰えた。
中曽根は安倍に閣僚人事の相談をするなど、安倍重視の姿勢を見せる。中曽根康弘内閣では外務大臣として入閣し、連続4期務めた。安倍は必ずしも国際派というわけでもないが、義父・岸信介の米国人脈を生かし、韓国などアジア諸国との外交にも尽力したこともあり、マスメディアなどでは「外交の安倍」という評価を受けるようになった。一方でパフォーマンスに長けた中曽根の陰に隠れ、外相としても新機軸を打ち出せずに終わったとも言われ、ポスト中曽根を目指して打ち出した政策である「グローバル・ニューディール」も、国民世論の理解を得たとは言い難かった。また、長きに渡って激務である外相を任されたことが、寿命を縮めた面も否めない。
1986年(昭和61年)、衆参同日選挙となった第38回衆議院議員総選挙で自民党が大勝し、第3次中曽根内閣で、安倍は党総務会長に就任。同時に派閥会長の座も禅譲された。中曽根の総裁任期満了により、後継総裁候補として安倍、竹下、宮沢が出馬するが、中曽根の巧妙な戦略とニューリーダーたちのひ弱さにより、結局は中曽根に指名権が握られ、世論などでは雰囲気として安倍有利とされたが、結局、中曽根は竹下を後継総裁に指名した(中曽根裁定)。この際竹下が自分を総裁にするのに協力すれば次は安倍に譲ると禅譲を持ちかけたという説もあるが、当時彼の秘書であった次男の晋三ら関係者は否定している。後継総裁を逃したことで、当時安倍派の中堅議員だった小泉純一郎が激怒し、他の議員たちの前で安倍を叱咤したという。
1987年(昭和62年)に竹下内閣が成立し、安倍は自民党幹事長に就任。消費税導入などで国会対策の先頭に立ち、「ポスト竹下」の最有力候補として自他共に認める存在であった。
発病・死去[編集]
1988年(昭和63年)、自身の秘書がリクルートコスモス(現「コスモスイニシア」)の非公開株を譲り受けていたためリクルート事件に巻き込まれたが、その最中に膵臓癌が判明し、緊急入院を余儀なくされた(当時は、リクルート事件のほとぼりを冷ますための避難入院と見る政治評論家もいた)。1989年(平成元年)5月、表向きには「総胆管結石治療」と称して手術を受けた。1990年(平成2年)1月にはソビエト連邦を訪問。総理・総裁就任に向けて、全国各地で安倍派の新人議員を擁立し、同年2月に行われた第39回衆議院議員総選挙では、自派から若手議員を大量に当選させた[注釈 4]。同年6月に訪米するも8月に病状が悪化し入院。9月に予定されていた訪ソを断念したが、病身を押してソ連邦初代大統領ミハイル・ゴルバチョフの来日に尽力、ゴルバチョフとの会談を行ったがこれが安倍にとって最後の政治活動となった。
1990年(平成2年)9月に再入院した。この際に次男の晋三から「癌です」と告げられた時、「ああ、やっぱりそうか」と反応しただけだったという[8]。
1991年(平成3年)5月15日、入院先の東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院で死去した。67歳没。
韓国や統一教会との関係
義父・岸信介は「国際勝共連合」・「統一教会」(世界基督教統一神霊協会)と友好的な協力関係を持っていたが、晋太郎も同じく、関連が深いとの見方がたびたび取り沙汰されていた。「自民党内部の統一教会シンパとしてさかんに議員に統一教会員を秘書として紹介し、セミナーへの勧誘をしていた[9]」と言われており、1999年には『週刊現代』が統一教会と国会議員の繋がりを暴いた記事で「安倍晋太郎氏がセミナー等への勧誘を行っていた」と報じた(参考:スクープ! 公安の極秘資料入手現職国会議員128人の「勝共連合・統一教会」関係度リスト(週刊現代, 99年2月27日号) 阿修羅掲示板より記事原文画像[9])。事実、統一教会は晋太郎を総理大臣にするべく応援[注釈 6]してきており、当時、竹下を後継指名した中曽根を強く非難していた。
2006年には、息子の晋三(当時は官房長官)が「統一教会」の関連団体天宙平和連合のイベントに祝電を寄せたことが報道され、岸信介、安倍晋太郎の代からの深い関係があるのではと見られ波紋を呼んだ。この件に関し晋三は、「秘書が行った行為で、誤解を招く行為であった」という旨のコメントをした。[10]
晋太郎は当時反共独裁体制だった韓国政界と太いパイプを持っていたので、親韓派と言われることが多い。晋太郎の福岡事務所が入っていたビルはパチンコ事業で成功を収めた在日コリアンの実業家の経営する本社のビルであり、1980年代末には、その実業家との癒着に疑惑がもたれたこともあった[11]。
- ^ 「統一教会」の教祖、文鮮明は「日本の今度の選挙だけでも、私たちが推してあげたのが百八議席当選した。」、「派閥で見れば、中曽根派は六十二議席にもなって、安倍派は八十三議席。私が全部そういうふうに作ってあげた。」と述べている(韓国の『統一教会』機関紙『統一世界』1990年4月号)